かつて「江戸の情緒を今に伝える名所」として、多くの花見客で賑わった久地梅林(くじばいりん)。時代の移り変わりとともにその姿は形を変えましたが、現在は「久地梅林公園」として、その歴史と文化を次世代へと繋いでいます。

久地梅林の誕生と発展
久地梅林は、江戸時代の享保年間に始まります。庄屋の川辺森右衛門が幕府の命を受け、梅の栽培を推奨したことが発端です。やがてこの梅林は広く知られるようになり、稲田堤の桜とともに多くの人々が訪れる花見の名所となりました。

交通の発展と観光地化
1927年(昭和2年)、南武鉄道(現・JR南武線)の開通により「久地梅林停留場(現・久地駅)」が設けられたことは、地域の発展に大きく寄与しました。さらに玉川電気鉄道(玉電)による観光宣伝も行われ、久地梅林はさらに広く知られるようになりました。
消失と記憶の継承
しかし、戦争による農地転用や戦後の都市化の進行により、梅林は次第に縮小しました。現在では当時の面影を残す梅はごくわずかです。それでも、周辺に残る地名や施設名が、かつての繁栄を今に伝えています。
2002年(平成14年)、川崎市は久地梅林公園を整備し、詩人・北原白秋が1933年にこの地で詠んだ文学碑も設置され、文化的な価値の継承が図られています。春にはメジロが花の蜜を求めて訪れ、自然の営みが今も息づいています。

北原白秋は、昭和6年初夏から世田谷の砧(きぬた)村大蔵に住んでいました。
同8年(1933)2月27日夜に開かれた、与謝野鉄幹の還暦祝賀会に「梅」を題材にした歌を出席者が持ち寄ることとなっていたため、 白秋は当日早朝、ここ久地梅林の梅を観に来たものと思われます。
臥龍梅(がりゅうばい)といって、龍が地をはうように茂る梅の花を見て、 うわさに聞いてきたとおりのすばらしい花に感動し、
「君(鉄幹)がため 未明(まだき)に起きて梅のはな見に来りけり まさやけき花」
の他、9首を詠んで贈答歌としました。
その頃の久地梅林は、近郷近在から多くの人が訪れ、屋台も出る程賑わい、 南武線久地駅の駅名は、当時「久地梅林駅」でした。
地域の象徴としての梅
近隣のバス停や交差点名には、今も「梅林」の名が刻まれています。また、 2002年度の区制30周年を記念して、梅が高津区の「区の木」に指定され、地域にとって象徴的な存在となっています。

💡 公園の見どころチェック
| 注目ポイント | 解説 |
| 北原白秋文学碑 | 1933年(昭和8年)にこの地を訪れた詩人・北原白秋が詠んだ短歌が刻まれています。 |
| 春の訪れとメジロ | 毎年、可憐な花を咲かせる梅の木々。花の蜜を求めてやってくるメジロの姿は、春の風物詩です。 |
| 新平瀬川のせせらぎ | 川崎市によって整備された新平瀬川沿いの開放的な空間で、のんびりと散策を楽しめます。 |
| 久地円筒分水 | 新平瀬川沿いに少し歩くと、1941年(昭和16年)建設の国登録有形文化財である農業用水施設があります。 |

久地梅林公園
所在地:川崎市高津区久地3丁目4ー32